読書「神童は大人になってどうなったのか」小林哲夫

「神童」素敵な響きである。

幼少期に「神童」と呼ばれ、「末は博士か大臣か」と将来を嘱望されていたが、気がつけば神童の面影はなく凡人になった人は数知れず。

そんな中、本物の「神童」はどんな人なのかを知ることができる。

「神童」=「勉強ができる人」と定義して、東大や筑波大学附属駒場(筑駒)、灘出身者がどうなったのか、過去から現在まで著名人を中心に追ったもの。たとえば、片山さつき、舛添要一、小和田雅子、孫正義、堀江貴文など華麗な経歴の持ち主たちである。

 

スポンサーリンク

恐るべき神童たちのエピソード

紹介される神童たちのエピソードや逸話には驚きと諦めとが交錯し、ため息しか出てこない。たとえば

  • 教科書は一度読んだら大体覚えた
  • 先生の話を聞いていたらテスト中に頭の中で再生できる
  • 他にやることがなくて時間があったから勉強していた
  • 学校の図書館の本は全部読んだ
  • 外国語も辞書を調べなくても何度も聞いているうちに自然と意味をとれる

などであり、正直、何を言っているのだかさっぱり意味が理解できなかった。そんなことできる人間がいるわけないじゃないか、いや、できるから神童と呼ばれるのであろう。やはり私は神童でも何でもない凡人であることを自覚する。

 

スポンサーリンク

神童は遺伝か環境か

頭の良さは遺伝なのか環境なのか。

実際には遺伝の影響が大きいのは間違いないはず。戦前、高学歴家庭を遺伝や環境の観点から大規模調査を行っており、その結果としては、やはり父親・母親・祖父母まで高学歴である家庭が多かった、と紹介されている。

もちろん、遺伝だけでなく、その「地頭の良さ」を発揮できる環境が幼少期から家庭に備わっていたことも大きな理由なのだろう。

たとえば、本棚には文豪の名作や専門書が並び、普段から政治や経済の話が家庭内で飛び交っている。そんな環境に身を置いていれば、自然と勉強するようになる、ということなのだろうか。

毎晩缶ビールを飲みながらプロ野球を観て野次を飛ばし、バラエティ番組を観てる家庭環境と同じになるわけがない。

それにしても、スポーツや芸術の世界では遺伝や才能が存在することは認められているのに、勉強については遺伝を認めたくない人が多いのはなぜだろうか。不思議である。

 

スポンサーリンク

神童に未来を託すということ

最初は「村一番の」神童ともてはやされていても、町・市・県・全国と対象範囲が広がっていくと「村一番の」神童がたくさん集まってくることになる。その中でもトップを維持するのは困難を極め、自分以外にこんなに頭の良い人がいるのか、と知って挫折していく人が大半であろう。

遺伝もあるだろうが、本人たちが努力することによって掴んだものを、凡人たちが足を引っ張って邪魔をするような真似はしたくない。

しかし、日本ではとかくエリートを毛嫌いして引きずり落とそうという人が多い。あげく「勉強だけできてもダメだ」などと謎の理論をふっかける。もちろん、勉強プラスアルファがあればベストであるが、「勉強すら」できない人がいうことが多いのだから笑うしかない。

もっと神童たちがその能力をいかんなく発揮できる環境を作って欲しいものだ。

一方、浮世離れした神童たちが変な女に捕まってしまうのも見ていてツラい。理研のあの事件はいったい何だったのか。なんであの程度の女に引っかかってしまったのかと悲しくなってしまう。

最近、高学歴同士の結婚が増えてきている傾向にあり、それは小学校時代や予備校時代に塾であったり、全国模擬試験でお互いに名前は知っている者同士が大学であったりすることに端を発しているとのこと。

周囲を観ても女性は自分と同程度の学歴またはそれ以上を求める傾向にある気がする。東大同士、早慶同士で結婚している友人がたくさんいる。そのような高学歴カップルの子どもが神童を産み、育てていくのだろうか。

それはそれで楽しみであるのだが、ますます格差が広がっていきそうな気もする。教育が最も効率の良い投資であることは書籍『「学力」の経済学』でも紹介されているので、神童にはなれなくても環境面で学力を伸ばせるように親としては工夫すべきなのだ。

「神童」は作れる。ただし、誰にでもできることではない。